滝川市から留萌市にぬけて、日本海に出ました。
オロロンライン(石狩市から天塩郡天塩町まで)と呼ばれる道をひた走り、宗谷岬を目指します。
その途中に、一つ寄り道したい場所がありました。
留萌の小平町の花田家番屋。
明治から大正にかけてニシン漁で栄えた重要文化財の鰊番屋です。
実はここは、私のひいひいおばあさんが働いていたところです。
ニシン漁の最盛期には、この他にも船倉、米蔵、網倉など100棟以上の付属施設が建ち並んでいたそうです。外見は洋風な建物ですが、
中はまるで土間に能舞台のような居間のある木造の純和風な建物。
北海道に残されている民家の中で最大規模だそうですが、200人を超えるヤン衆(雇い漁夫)がこの大空間にひしめき合い、ニシンの群来を待ちかまえていたそうです。
ニシン群来があると、やん衆は舟を漕いで定置網に取り組み、地元の女性や老人、子供までニシンを背負い籠で背負って運ぶ村を挙げての大仕事でした。
やん衆はこの通路の左側の物が置かれている上の棚のような頃で寝ていたそうです。200人もいたのですから大変なことです。食事も立ってしていたそうです。やん衆は道南や青森、秋田、岩手の東北3県から親方に率いられてやって来て、群来があれば銀行員の月給の倍近く稼いだそうです。
ひいひいおばあさんの娘は、青森から来た男性と結婚したそうです。
古い写真がいろんな所に飾られていて、、、どこかに写っていないかなあ〜。
女中部屋。
私のひいひいおばあさんは、女中でしたのでここで寝泊まりして働いていたのかもしれません。
網元の住居部分の帳場。
扉に色ガラスをはめた洋風トイレ。う〜ん贅沢。
金庫の間には新潟県出身の山田東洋という画家が描いた初代花田博作夫妻の肖像画が。
花田家の大将さんは、困っている人をよく助け、面倒を見ていたそうです。
花田家復元のための解体作業の時にいろりの下から小さな仏像が出てきたそうです。制作年代も作者もわからないそうです。漁場ではいろりは清浄なところとされているそうです。6、70年ものあいだここに埋められていたようです。やん衆の誰かが、ここに埋めたのでしょうか、、、
私のひいひいおばあさんは、お吉さんといって、山形の鶴岡のお城の側室だったそうです。
お殿様とお吉さんはその時代珍しく大恋愛をしたそうです。
そしてどうしてそうなってしまったのかわかりませんが、お殿様と駆け落ちをし、北海道に渡ってきたそうです。
そして女の子が生まれました。わたしのひいおばあさんです。
その間鶴岡では、弟がお城を次いでいたのですが、しばらくするとお殿様だけが連れ戻され、お吉さんと娘はこの北海道の大地に取り残されてしまいます。
駆け落ちをした身ですし、縁も切られ、お吉さんはふるさとに戻ることもできず、知らない土地で一人子供を育てました。
どういういきさつで花田家に来たのかはわかりませんが、流れ者の彼女らを救い、ここで住み込みで働かせていただきました。
そして、その子供はここで出会った方と結婚し、私の祖母が誕生することになります。
しかしお吉さんは、我が子が成長しお嫁に行くのを見届けて、残念ながら自害をしてしまいます。
そして今でもこの鬼鹿という町に眠っています。
10年ほど前に不思議なことがありました。
北海道で旅公演の巡業している時のことです。
次の公演へ向かっている途中、内陸の道を通る予定でしたが、なぜか運転手の方が日本海側を通って、花田家のある道の駅でお昼休憩をとりました。
聞き覚えのある名前だったので母に電話すると、母はびっくり!
陽子ちゃんが引き寄せられてる!
何か悪いことが起こらないうちに!
ということで、
その後、祖母や親戚と供養しに北海度に行きました。
激動の時代だったことやいろんな意味で、ちゃんと納骨がされていなかったのです。
それ以来祖母は、胸のつかえが一つ減ったようで、昔の写真を出してきてくれて、その頃のお話を少しですが教えてくれました。
花田家は昭和に入ってしばらくすると ニシンの数が減り、ニシン業が終息を迎えます。
そして祖母の家族は親戚とともに樺太に移り住ます。
その後、運良くロシアからの爆撃に会う前に、北海道に戻ってきました。
しかし両親も亡くなり、祖母の兄弟姉妹も離ればなれになり、残された小さな親戚を引き連れて戦争のさなか北海道から九州の身寄りをたよりに、大移動をしました。
そして、北九州の祖父と出会い、私の母が生まれ、私が生まれてきました。
何とも壮大な話です。
この花田家で小さな命を繋いでいただいたお陰で、今があり、
またそうゆう風に人はつながって生きてきているのだなあとしみじみと感じました。
そしてもう一つ不思議なこと。
私の祖先は山形から北海道に渡り、いろんな事情で九州へ流れ着きました。
そして同じようにトシオさんの祖先は入れ違いのように九州の太宰府から岡山県、北海道へと移住し、トシオさんはここ北海道で生まれました。
その両極端な私たちが、関東で出会い、今一緒に全国を旅をしていることが本当に不思議でなりません。
この先私たちの定住の場所は見つかるでしょうか。
それは旅の目的の一つのテーマでもあります。
でも私たちの先祖は、どんな逆風にも負けず、どんな土地であろうと、必死で生き延びてきました。
その強い心を私も受け継いでいると信じて、一生懸命生きてゆきたいと思います。