先日長崎の「とぎつカナリーホール」でのコンサートのため、はじめて東京から飛行機で長崎空港へ行きました。大村市というところに空港がありました。大村市は日本最初のキリシタン大名大村純忠が治めていた所。開発が進み、整備されたきれいな町並みですが、ここには悲しい歴史が静かに眠っていました。


空港から橋を渡るとすぐに「天正遺欧少年使節之像」
キリシタン大名の大村純忠、大友宗麟、有馬晴信が、十代半ば4人の少年をローマに派遣しました天正遺欧少年使節。西洋との交流のなかった戦国時代、ヨーロッパのキリスト教文化を見聞させ、日本をヨーロッパに紹介するため、送られた彼らはヨーロッパ各地で公式使節として歓迎を受け、8年5ヶ月の大旅行をしたそうです。一行は活字印刷機械などヨーロッパの進んだ技術や知識を持ち帰り、日本文化に貢献しました。左からマンショ、ミゲル、マルチノ、ジュリアンです。


コンサートの無事を祈り、カトリック植松教会へ行きましたら、お祈りをされているご夫婦とご夫人がいらっしゃいました。このキリストさまのお膝がこすれて血にまみれているお姿をみて、キリストさまの受難のことを話しておられました。そしてご夫人が声をかけて頂き大村の町の事をお話しして下さいました。私たちも時間のある限り、大村キリシタンの史跡をまわってみる事にしました。


水主町教会
先ほど植松教会で出会いましたご夫婦の方は、京都から日本二十六聖人が歩かれた巡礼の道のりを歩かれているそうで、水主町教会でお二人の無事をお祈りしました。


水主町教会の保護聖人「大村の聖マリナ」
大村市で出生した聖マリナは、ドミニコ会第3会の修道女として誓願を立て、キリシタン迫害を恐れず、信者を励まし宣教師たちを助けた勇敢な女性であったそうです。
長崎奉行に捕らえられ裸にされ市中引き回しにされましたが、恐れることなく耐え抜き、1634年10月15日長崎西坂の丘で火刑に処され殉教しました。1981年、マニラで列福され、1987年にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖されたそうです。


大村純忠がこの地を治めていたころ、領民のほとんどがキリシタンで、全国でも4割、6万人も信徒がいてキリシタン全盛期でした。しかし、豊臣秀吉が1587年に発令した伴天連追放令により、宣教師の弾圧が始まり、江戸時代には信仰が禁止されキリシタンは厳しい迫害を受けました。
 
そんな中、もうキリシタンはいないだろうと思われたキリスト教禁止令発布から45年後、大村地方に潜伏キリシタン発覚の「郡崩れ」という大事件が起きました。大村藩では郡村を中心にキリシタン603人が芋づる式に捕らえられました、あまり多いので、大村・長崎・佐賀・平戸・島原の5か所の牢に分けて入れられました。それぞれ取り調べの上、打ち首406人・牢死78人・永牢20人、赦免99人という結果になりました。郡崩れをきっかけに、藩内では厳重なキリシタン禁止制策として、寺請制度・5人組制度・絵踏みなどが行われるようになったそうです。


妻子別れの石
大村牢から処刑のため131人が斬罪所に連れて行かれました。ここは見送る家族や親戚の人たちと、最後の別れを惜しみ、水盃を交わした所。とめどもなく流れる悲しみの涙で濡れた石として、またの名を「涙石」とも呼ばれ、今でも苔が生えないといわれています。

 


首塚跡と塚胴跡
「郡崩れ」の殉教者131人の首と胴が別々の場所に埋められました。
キリシタンの妖術で首と胴がつながって生きかえることを恐れたため、胴と首を約500mも離して埋めたそうです。


獄門所跡
人々の往来が激しい長崎街道筋で、131人の首を塩づけにして棚板に並べ、20日間みせしめのためにさらされた所。優しいマリア様の像が建てられていました。哀しみを受け止め、天へと導いて下さっているかのように優しく微笑むマリア様。


放虎原殉教地の潜伏キリシタン殉教碑浮彫
「郡崩れ」で捕らえられた隠れキリシタンたちが処刑された所。中田秀和さんの彫られたこの浮彫りは殉教者等が最後まで強い信仰をもって、神の国へ憧れ、神もまた彼らの心を慰め励ましたことを表しているもだそうです。

こんな悲しい歴史があったことを知ろうとしない限り、私たちは何も知らされることはありません。長崎には原爆が落とされただけでなく、このような悲しい歴史が眠っています。小さなロウソクの火のように街の片隅で。

そしてカトリック植松教会で出会いましたご夫人と京都からのご夫婦に再会しました。こうしてこの場所で出会えた事、何かのご縁なのかもしれません。悲しい場所ですが、あたたかな気持ちになってキラキラ涙があふれました。

そして「とぎつカナリーホール」のコンサートの日、ご夫人に教えて頂いた「日本二十六聖人上陸の地」へ行きました。こけしのような記念碑がとても愛おしいのよ。とご夫人が言われていました。


「日本二十六聖人上陸の地の碑」
東彼杵町から乗船した26人の聖人たちは寒さの深い1597年2月4日、ここに上陸し、時津街道から浦上街道を経て、処刑が行われた西坂の丘へ向ったそうです。

夏に島原半島、長崎市、外海を訪れたときには、キリシタンの歴史や原爆の事など悲しみがいっぱいで心の整理がつかず、ブログにアップ出来ませんでしたが、ご夫人や、巡礼なさっているご夫婦にであった事で心が癒されました。少しずつ見てきた事をアップしたいなあと思います。
出会いは本当に不思議です。
お導きに感謝!

ありがとうございました。