雲仙から、島原半島をぐるっと一周しようと、山を下り海の方へ。
天草・島原の乱で、一揆軍が最後に立てこもったお城原城跡へ行きました。


原城跡
1496年に築城され、キリシタン大名有馬晴信の頃は「日暮し城」と讃えられるほど美しかったそうです。わずかに石垣が残されていますが、島原の乱後は幕府により徹底的に壊されたそうで、今は広場となっています。


有馬氏が日向国に転向されると、大和五条から松倉氏が入部し、原城を廃城として、島原城を築城しました。築城にあたって領民は過酷な賦役と重税を課せられ、また天災による凶作で、窮乏のどん底でした。その上キリシタン大名である有馬晴信の所領であった島原はキリシタンも多く幕府のキリシタン禁教令により厳しい残酷な迫害を受けていました。


100年近くもキリスト教の布教活動が続いていた地。
島原の乱でほとんどの領民がいなくなったそうです。


ホネカミ地蔵
『有馬村願心寺の注誉上人が、この戦乱で斃れた人々の骨を敵・味方の区別なく拾い、霊を慰めた地蔵尊塔。八波則吉先生は,「骨かみ地蔵に花あげろ,3万人も死んだげな,小さな子どももいたろうに,骨かみ地蔵に花あげろ」とうたっています。
「ホネカミ」とは,「骨をかみしめる」の意味で,そのことから「自分自身のものにする」「人々を済度する(助ける・救う)」と理解すべきだと言われている。』
と書かれてありました。


天草四郎像
島原藩主がキリシタン大名の有馬家から松倉家に変わった年、天草を追放になったママコス神父はその地を去る時に不思議な予言の書を残していきました。
「当年より五々の数をもって天下に若人一人出生すべし。その稚子習わずして諸学を極め、天の印顕わるべき時なり。野山に白旗立て諸人の頭にクル スを立て、東西に雲焼る事有るべし。野も山も草も木も焼失すべきよし。」
5歳にして字を書き、習わずして書を読んだ天草四郎。
その予言の中の印を持つ若人というのは、この当年16歳の少年のことではないかと噂になったそうです。

 
天草四郎の墓碑
16才にして一揆軍の総大将となった少年。
その勇敢さは今でも美しく語られていますが
様々な大人の事情に翻弄され、救世主として祭り上げられ
たくさんの哀しみを抱え、、、

墓碑の向こうには
ヴェールのかかった天草の地がうっすらと見えました。


穏やかな海。
この地で命を落としていったたくさんの方の思いや哀しみが
この広い海で浄化され、祈りへとなりますように