鹿児島のカテドラルで資料を見ていると、カテドラルからそう離れていない福昌寺跡の敷地にキリシタン墓地があるということで、行ってみることにしました。


福昌寺はかつて鹿児島市に存在した曹洞宗の一大寺院で、 薩摩藩主島津氏歴代の当主の菩提寺でもあり、江戸時代に書かれた『三国名勝図会』によると大伽藍を備えた南九州屈指の大寺であり、最盛期には1500人の僧侶がいたそうです。


今は明治の廃仏毀釈により破壊され、歴代島津氏当主の墓地群のみが残っていました。


このあたりは大竜町と呼ばれ、墓地の前にあります玉龍高校の場所に島津の本城である内城があったそうです。日向耳川の合戦で大友軍を破った 島津義久は、数百人の僧を招いてこの福昌寺で敵味方同様に戦死者を弔いました。


あんまり広い敷地に宝篋印塔がたくさん建てられ、こんな光景を見たことがなかったので、日本ではないようで、とても不思議な気持ちがしました。
宝篋印塔はインドのアショーカ王が釈迦の入滅後に立てられた8本の塔のうち7本から仏舎利を取り出して、新たに8万4千塔に分納したという故事に習ったもので、日本には鎌倉中期以後に造立が盛んになったそうです。


玉龍山と呼んだ福昌寺。龍の彫刻や所々に掘られた岩が寂しく昔の面影を物語っているようです。


なんだか古代の遺跡の迷路の中に迷い込んだ気持ちの中、裏のキリシタン墓地へ。
階段を上ってゆくと、ひっそりとそのお墓がありました


明治に入り新政府はキリシタン弾圧を再開しました。
長崎「浦上四番崩れ」で20の藩分散留置処分を受けたキリシタンのうち375人が鹿児島藩に預けられ、この廃寺となった旧福昌寺に収容されました。
フランシスコ・ザビエルゆかりのこの地では、
棄教を勧められたものの、 他の地に比べもっとも寛大な対応を受けていたそうです。
1905年ラゲ神父により散在していた墓をこの地に集めて、記念墓碑が建てられました。
十字の記念碑の奥に政府に捕らえられ、鹿児島藩に預けられて死亡した長崎浦上キリスト教徒たちのお墓がありました。
土に埋もれ苔むした墓石が雨に濡れて
異郷の地に眠るキリシタンたちの悲しみがにじんでいるようでした。


鹿児島へ上陸した聖フランシスコ・ザビエルは、領主島津貴久の許可を得て熱心に布教しました。
この福昌寺を宿所とし、この時に当時の福昌寺住持であった15世忍室と心通じ合い「この忍室は私とたいへん親しい間柄で、それは驚くほどです。」と激賞されていたそうです。
年老いた禅僧忍室はサビエルに神の道を聞いてひそかに神に祈っていたそうです。


愛の教えを説くキリスト教は迫害され、日本では悲しいキリシタンの歴史を作ってしまいましたが、
その教えは、戦乱の世で忘れ去られていた、ささやかな心の優しさ、
このかわいらしい椿の花を思うような愛情があふれていたのでしょう。
争いのない平和な暮らしをしていた古代日本人。
そんなかつての記憶が重なり、宗教という枠を超えて禅僧忍室やキリシタンたちは心を解放され愛に生きたのでしょう。