竹田津港を望む丘陵。110メートルほどの山をぐるぐるとあがってゆきますと、国の史跡に指定されている6世紀に築造された鬼塚古墳がありました。途中には、JAの鳥さん?のえさを作っている工場があって、本当に古墳なんてあるのだろうかと不安になりながらも、なんとかたどり着きました。


斜面に半地下に埋め込まれた「横穴式石室」だそうです。
お墓だけど、、、こんなお家で暮らしてみたいなあ。


中の様子はこんな感じ。
柵がしてありますので、入れませんが、連絡すれば見学させてもらえます。
玄室(横穴式石室や横穴の死者を埋葬する墓室)各壁に、
鳥や舟、舟上の人など線刻され、
この地方の海上で権力のあった人物の古墳とされています。


海風も吹いて、気持ちいいなあ。古代の風景がぽつんと残されている不思議な場所です。
小さな草木におおわれてとても可愛らしい感じ。
登ってその上で演奏したい気持ちに駆られましたが、お墓ですし、ぐっとこらえて。


何やらトシオさん一生懸命写真を撮っています。
あら、大好きなトカゲさんがいらしたのですね。

国東半島で頭に浮かんでくるのが、四角い石に仁王さんが彫られている写真。
小さなとき、この仁王さんが、まるで何かの魔法にかかってこの石に閉じ込められているような、そんな想像をしていたのを思い出します。
この仁王さんで有名な「旧千燈寺跡」。

奈良時代718年に六郷満山の中で最初に創建され、中核寺院の1つの大寺院寺院であると伝えられています。「西の高野山」と呼ばれていました。


千燈寺の名前は、国東六郷山を開いたと言われる仁聞菩薩が修行をしていると、東北海の龍王がその徳に感じて千の燈を献じたことから名付けられたとされています。
その仁聞菩薩の入寂(悟りの世界に入る、つまりお亡くなりになられたこと)の地とも言われています。 


今残っているのは、石畳の参道と積み上げられた石、そしてこの仁王像。
苔むした石畳みに枯れ葉がつもり、寂しさがこみ上げます。
それでもこの二つの仁王様は今なお寺院を守りつづけています。

大友宗麟の時代、国東の多くの寺々が焼き討ちに遭いました。
朝に訪れた両子寺もそうですね。
旧千燈寺跡も大規模な伽藍は焼失し、文禄年間に再建されたものの往時の繁栄を取り戻すことはなかったそうです。

大友宗麟が、キリスト教信仰に深入りした余り、神社仏閣を徹底的に破壊していたと言われています。しかしこれは日向国侵攻のときの日向国内限定においてであり、本拠である豊後国内で寺社仏閣を破壊したことを示す資料は見当たらないそうです。
積極的に寺社の破壊を行っていたのは次期当主であった子の義統で、大友家の勢力が衰退する中で、寺社勢力が非協力的になった為と家臣に所領として与える土地がなくなった為、寺社領を取り上げて家臣に与えるという政治的理由の方が大きかったとされているそうです。

本当のところは分かりませんが、、、。

どんなことが理由であれ、心のよりどころである神聖な場所を破壊するなんて、ひどいことです。こんな事が世界中で行われてきた世の中、
誰もが世の平安、心の平和を願っているのに、繰り返し、、、人間は本当に愚かな生き物、、、。

悲しみを包み込むように多くの人が祈りを捧げたこの場所は、静かに朽ちていっています。
もしかしたら仁聞菩薩が悟りを開いた頃に帰っているのかもしれません。
人間がどうしたからといって関係なく山は緑を、鳥を、虫たちをそして、そんな歴史も
みんな抱えて一つにしてゆきます。

旧千燈寺跡からさらに奥に旧千燈寺跡をさらに登ってゆくと、講堂跡や五輪塔群、奥の院の左手には仁聞が入寂したといわれる枕の岩屋と呼ばれる窟などがあるそうです。

両子寺で満喫しすぎて、二人とも足の筋肉がぶるぶるしていましたので、上の方までは行けませんでしたが、またゆっくり行きたいです。

両子山、七不思議巡り。
とてもお天気が良く、山の中は杉の木や檜などの香りが甘く漂い気持ちが良かったので山を散策することにしました。
しかしこんなに森の香りを嗅いだのは初めてかもしれません。


「鹿の爪石」親子鹿の大小の爪跡が残っています(伝説?)。

ルートを間違えたのか、一番上から来てしまいました。
本当は山を登ってゆくルートだと思うのですが、下りながらお山巡りです。


七不思議ではありませんが、大きな石に鬼が手をついているような木。
どこから栄養を吸い上げているのでしょうか。


しばらくゆくと「鬼の背割り」と言われる大きな岩がありました。
昔、千徳坊というお坊さんが、背で割って通路をあけたと言われている二つの大きな岩。
ちょうど光が差し込んで、幻想的な風景でした。
すんなり通れそうですが、岩がごつごつ上り坂で、結構大変です。


またしばらく行きますと今度は、「針の耳」と言われる岩がありました。
隙間がまるで針に糸を通すように通り抜けるのが難しいから、、、。
滑り台のようにするっと抜けましたが、
逆から通っているので、、、登るのは大変そうです。


トシオさん、実は下駄でした。
いつも履いている下駄ですが、滑るので大変そう。
でも何とか通り抜けるとたくさんの観音様が迎えてくれました。(それも本当は逆ですが)


巨岩のすきまに。


百体観音。
やさしいお顔の素朴な観音様が岩の影にたくさん。
山岳修行の方が掘られたのでしょうか。
大きな岩だらけで、本当に鬼が出てきそうな恐ろしい山に
観音様がいらっしゃるだけで、心が落ち着きます。
不思議ですね。


下駄のトシオさん。
下るのに大変な思いを。お山巡り甘く見ていた、、、と反省していました。

思っていたよりもずっとずっと大変なお山巡りでしたが、久しぶりに山の散策が楽しかったです。
ちょっと危ないところもあるけれど、子供と一緒にこんな山体験が出来たらいいなあ。と思いました。
甥っ子や姪っ子もすごく喜びそう!!
遊具がなくとも、大自然では楽しみがたくさん。
危険もたくさんだけど、それが生きていることを感じさせてくれる大事な事なのかもしれませんね。
まずは私たち大人から、もっと自然に帰って行かなくちゃ。

奈良時代から平安時代にかけて六郷満山と 呼ばれた仏教文化が栄えた国東半島。
奈良や京都の文化に宇佐八幡文化や天台仏教、修験道などが混ざり合って 形成された神仏習合、六郷満山。国東独自の文化だそうです。
「み 仏の里」の真ん中、両子寺を訪れました。

無明橋を渡ると

大きな足のような木。
しっかりと地をつかんでいるよう。
その向こうに国東半島最大の石仏仁王と門が。


あ!       うん!


迫力あるその勇姿に背中が引き締まります。トシオさんの写真!をお借りしました。う〜迫ってくる。

「護摩堂」
山岳修行の根本道場。
本尊不動尊をはじめたくさんの仏様が祀られていました。
明治2年に焼失し、後20余年かかって原型どうりに再建したそうです。
本尊不動尊をはじめたくさんの仏様が祀られていました。
早起きは本当にお得ですね。
開門と同に時入る事が出来ましたので、朝の澄んだ空気の中で静かにお祈りすることが出来ました。


奥の院まで、階段を上ってゆきます。ここの仁王像はちょっと可愛らしいです。


山王社鳥居。苔むした階段に長い年月の重なりを感じました。


「奥の院」
不老長寿と子授け申し子祈願の霊場として広く国内に知られているそうです。


32人の子供を産んだ女人からハギレをもらって、自分の一キレを加えて33キレを縫い合わせた袋を作り、お米を入れてお供えをするそうです。(詳しくは両子寺まで)


奥の院の奥に湧き出でる神秘の水。
岩からほんの少しずつにじみ出ていました。
ろうそくの火に新しい命が灯されますように。

杵築城を後に国見町の方へ海岸線を走ります。
今日は巡礼の旅だね。とトシオさん。


ペトロ・カスイ岐部神父記念公園へ着きました。
赤い屋根の記念聖堂。毎年10月に顕彰のための岐部祭が開催されるそうです。


聖堂は閉まっていましたが、入り口からすっかり内部が見渡せます。
町の方のおかげできれいにお掃除されています。

 


舟越保武氏によるペトロ・カスイ・岐部神父のブロンズ像。
遠く海の向こうを見ています。舟越保武氏のペトロ岐部神父様への思いがしっかりと刻み込まれています。心を決めた神父様の堂々とした姿が美しい、、、


公園の後ろの小高い丘は、岐部一族の居城であった岐部城跡だそうです。
上に登ると、遠く姫島が見えました。

ペトロ・カスイ岐部神父
1587(天正十五)年、この豊後国国東郡の岐部で、岐部城主・ロマノ岐部と波多マリアの間に生まれました。あの大友宗麟死去の年です。やがて13歳で長崎の有馬セミナリオに入学しラテン語や音楽などを修めます。キリシタン禁教令後もマカオに渡りイエズス会コレジオに学んでいます。しかし日本人への偏見によって司祭への道が閉ざされ、ローマへの旅を決意します。インドからアラビア、パレスティナの陸路を経てローマに至り、日本人として初めてエルサレム、そしてローマを訪れます。1620(元和六)年ローマにて司祭に叙階。その後、殉教を覚悟して日本への渡航を希望し、日本にキリスト教をもたらした、フランシスコザビエルと同じ経路をたどりながら、日本へ帰国。激しい迫害を受けながらも九州より東北まで移動しながら信徒を励まし続け、1639年7月4日殉教しました。


海に浮かぶ姫島。夕焼けの霧の中に包まれて何とも美し。
激しい迫害を受けながらも、信者たちを励まし続けた神父様の思いが、
今私たちにも聞こえてきます。
きっと震災に遭われ心を痛めている全ての人に、たくさんの愛を注がれている。
そう信じています。